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セミナー
前回も意識意念にはエネルギーが有ると書いた事がありました。生活に於いてもビジネスに於いても、全て将来的願望に向かい常に挑戦しているのが人間ですが、何が原因で成功し、何が原因で失敗するのかを考える。
さて、全ての結果は一念に始まる!と題した理由は、人の心とは常に揺れ動き、時事刻々と移り変わり外的環境にも影響され、また反応し変化します。
念は心より発し現象的エネルギーを伴うために、心の変化とは(+)要因のエネルギーか(-)要因のエネルギーかに分かれてしまいます。
従って常に心が揺れ動く人は(+)と(-)が相殺され、成長発展に繋がるエネルギーとはならないのです。
中国の古書に聖(神仏)と凡(人)にはいずれも霊覚の心があるが、聖は凡が修行をして成ったもので「聖は一念の間に狂となり、狂は一念の間に聖となる」とあります。この「狂」を「凡」に改めると「聖は一念の間に凡となり、凡は一念の間に聖となる」となり、つまり一念の間に聖は凡に没落し、また一念の間に凡は聖に上昇するという事です。聖と凡の関係は「一念の間」にあります。この一念がすなわち霊覚の心と言っています。
霊覚の心とはすなわち善心と良心です。良心に手を当てている時は、霊覚の心を持っているのであり、その一念の間に善心と良心を選択し発揮したのです。
霊覚の心を発揮したからこそ、一念の間に私たちを上昇させて聖に到らせるのです。また一念の間に私たちを堕落させるのです。
この一念の転をどの様に把握するかは、どの様にして霊覚の心を把握するかにかかっており、それは一念の違いでしかありません。聖と凡は一念の間に決定されます。
更に皆さんが平凡から超凡に転じて聖に入る聖、上聖となることを肯定することをお進めします。
一念の転で陽(+)が生まれ、諸々の陰(-)はそがれ落とされるのです。
幽冥界と人間界の間には、一線が引かれている様ですが、地獄は人間界にあり、地獄は私たちの内心にあると考えます。
霊覚の心から離れたりそれを放棄したりした時には、疑心が生まれ、貪心が生まれ、妄心が生まれ、恨心が生まれ、私たちを堕落させます。
その結果は病や辛苦、不幸など現象化されます。(+)も(-)も自分が作り出したエネルギーによって現れた結果であり、全ての責任は自己の一念実行にあり、他人には一切責任は無いのです。
この様に心に抱く想念(霊覚)の在り方によってエネルギーとして蓄積するか、又は消耗させてしまうか決定されるのです。
これは自己に内在するだけとお思いでしょうが、その人を中心とした周辺の人々にも影響させる波動エネルギー(気)を発信してしまうのです。それが感化です。
これらの理論を重視し、常に周辺の人々に快い人間関係(お客様や取引業者)を築こうとするのが広岡イズムの思想哲学なのです。
オ-トウエーブには多くの見学者が来ますが、目にする事の出来ない想念の世界を理解しようとはせず、目に見える現象的部分で勝手な解釈をし、本質的な部分は理解されません。
オートウエーブで行なわれる協力会や発表会で、広岡会長が書かれた原稿が毎回出席者に配布されますが、その中に書かれた内容は真実実行中の事です。
しかし、それを読む方々は理想とする物では!と、大多数の方々が思っているため、具体化された本質を読取ることが出来ないのです。
広岡会長の一念が思想哲学を生み、その波動が社員一人々々の霊覚に伝達され、(+)エネルギーが巨大化し又、集団化するのです。
広岡会長を見習おうと思っていても、本人の一念が何処にあるか!が問題であって、形だけをまねても徒労に終わってしまいます。
では一念をどこに置くか。それは聖の意識を常に抱き「霊覚の心」を確立、する事である。聖の意識とは仙仏が抱く心。すなわち自己の福を求めず万民の幸せを願う心と行動である。
その一歩を提示しているのが、広岡会長の言う“お客様に対する感謝”であり、“お客様は師である”と言う。それに連動する思想と行動が今の結果として現れているのです。
結果は一念から始まり、その第一歩が「お客様に対する深い感謝」から始まる事を諭している。
その心境の真意は人からは与えられず、自己啓発からのみ霊覚の心が生まれるのである。
一念の継続には苦難と実行が伴う‥‥皆さんも挑戦して見ては‥‥‥‥